西岡力「朝鮮人戦時労働と佐渡金山」

発表1 

西岡力(歴史認識問題研究会会長)

 

          朝鮮人戦時労働と佐渡金山 

 

1 朝鮮人戦時労働の全体像

 まず朝鮮人戦時労働の全体像について概説しよう。

 朝鮮人労働者の戦時動員は1939年9月から始まった。実はその5年前の1934年10月に「朝鮮人の内地渡航を一層減少することが緊要なり」とする次のような閣議決定がなされている。

 〈朝鮮南部地方は、人口過密にして、生活窮迫するもの多数存し、これがため、南鮮地方民の内地に渡航するもの最近きわめて多数に上り、ただでさえ甚だしき内地人の失業および就職難を一層深刻ならしむるのみならず、従来より内地に存住する朝鮮人の失業をますます甚だしからめつつあり、またこれにともない朝鮮人関係の各種犯罪、借家争議その他各般の問題を惹起し、内鮮人間の事端を繁からしめ、内鮮融和を阻害するのみならず、治安上にも憂慮すべき事態を生じつつあり。これに対しては、朝鮮および内地を通じ、適切な対策を講ずるの要あり。すなわち、朝鮮人を鮮内に安住せしめるとともに、人口稠密なる地方の人民を満州に移住せしめ、かつ内地渡航を一層減少することが緊要なり。〉

 この頃、朝鮮から内地への渡航を希望する者は、居住地の所轄警察署か警察官駐在所に出頭して、就職口が確実なこと、旅費以外に10円以上の余裕金を所持していること、労働ブローカによる募集でないことなどを証明した上で、釜山の水上警察宛の「渡航紹介状」をもらう必要があった。それなしには内地への渡航は出来なかった。

 この1934年の閣議決定でその「渡航紹介状」が取得が厳しくなった。ちなみに朝鮮総督府の統計によると1933年から1938年までの6年間でなんと72万7,094人が警察に内地渡航を出願して不許可となり渡航できなかった。戦時動員が始まる前、朝鮮では内地に出稼ぎに行きたい朝鮮人労働者が多数渡航の機会を狙っていたのだ。

 正規の手続きを踏まない不正渡航者も多数いた。内務省統計によると1930年から42年までの13年間、内地で不正渡航者としてみつかったのが3万9,482人、そのうち3万3,535人を朝鮮に強制送還している。ここで見逃してはならないのは、戦時動員が始まった1939年から1942年までの4年間でも2万2,800人が内地で不正渡航として摘発され、1万9,250人が戦時動員期間だったにもかかわらず朝鮮に強制送還されているという事実だ。

 ここで強調したい事実がある。1939年9月に始まった「募集」形式の朝鮮人戦時動員は、1934年の「朝鮮人の内地渡航を内地渡航を一層減少する」という閣議決定の例外として始まったということだ。1938年4月に国家総動員法が公布されたことを受けて、内地では徴用による労働動員が始まったが、朝鮮ではそれは発動されず、1939年7月に内務・厚生両次官連盟で1934年10月の閣議決定の例外として、朝鮮人労務者を内地に移入する方針が打ち出されたのだ。

 放っておくと多数の朝鮮人が出稼ぎのために内地に渡航するのでそれを抑えるという閣議決定があったのかだが、その例外措置として朝鮮人戦時動員が始まったという事実はもっと多くの日本人、韓国人に知ってもらいたいことだ。そして、一度例外としてであっても門を開くと、それまで厳しく制限されていたことにより行きたくても行けなかった潜在的な渡航希望者が多数いたから、朝鮮人労働者らによる雪崩のような内地渡航が発生したのだ。

 内務省統計によると戦時動員期間(1939年から1945年)に合計約240万人(正確には237万8,232人)が内地に渡航したが、そのうちわずか4分の一の60万人(60万4,492人)だけが戦時動員(募集、官斡旋、徴用)であって残りの180万人(177万3,740人)が自発的個別渡航者なのだ。

 

2 佐渡金山における朝鮮人戦時労働

 次に佐渡金山における朝鮮人戦時労働について概説したい。一次史料、つまり戦時労働が実施されていた当時かその直後に現地で書かれた資料、当時の関係者の証言は先の意見広告の注2から4で挙げた三点しかない。

 注2の平井栄一編『佐渡鉱山史其ノ二』は1950年にまとめられた原稿で出版はされていない。平井栄一氏は、元佐渡鉱山採鉱課長で佐渡鉱業所を経営していた三菱金属の依頼で佐渡鉱山の歴史について江戸時代から昭和まで2巻にまとめた。

 なお、この史料の原本は現在どこにあるか不明だ。複写版が佐渡市相川郷土博物館と三菱史料館に所蔵されているが、公開されていない。私が会長をしている歴史認識問題研究会は1月26日にある筋から目次と844〜846頁にある「(九)朝鮮労務者事情」という項目の写真を入手して、研究会HPで公開した。

 ところが、佐渡金山の世界遺産登録に反対する立場で現地調査や研究を進めている韓国政府機関「日帝強制動員被害者支援財団」は同じ史料を1月14日に「匿名の日本人研究者」から提供を受けている。その研究者はそれを2015年8月に新潟県教育庁文化行政課世界遺産記録推進室から入手したという。以上は同財団が1月27日に行ったウエブセミナー「日本、世界遺産登録推進、『佐渡鉱山』の強制動員歴史歪曲」資料集に収録された、鄭恵瓊(チョンヘギョン)(ARGO人文研究所)「新しい資料を紹介:平井栄一『佐渡鉱山史』」による。

 佐渡鉱業所の内部資料を活用して書かれた『佐渡鉱山史』ではこれまでわからなかった、動員された朝鮮人の総数がおよび、各年の動員数、そして終戦時の残留数が次のように明らかにされていた。

 「昭和十五年二月朝鮮労務者九八名を募集し五月二四八名、十二月三〇〇名、昭和十六年二八〇名、十七年七九名、十九年二六三名、二十年二五一名計一五一九名を移入したが終戦と同時に残留人員一〇九六名を送還した」。

 また、待遇についても以下のように内地人と同じであったこと、宿舎や食事などで鉱業所側がかなり神経を使って良い待遇を与えていたことが次のように簡潔に書かれている。

 「待遇賃金制度、稼働奨励方法等概ね内地労働者と同一で主として坑内夫として就労し請負単価により稼高に応じ賃金を支給し、一ヶ月の稼働成績に応じ精勤賞与を与へ扶養家族の多寡及稼働日数に応じて米価補給を行ひ毎年二回の勤労賞与を交附し一般に家族持労働者には社宅の無料貸与、共同浴場施設、米、味噌、醤油其他生活必需品は購買会にて廉価配給及家族傷病の場合の診療等を実施し単身者は寄宿舎(三個所)に収容し舎費を徴せず食事は内地人同様の調理にして一日五十銭(実費の差額は会社負担)寝具使用料一ヶ月一組五十銭にて貸与し光燃費浴場費は会社負担其他作業用品依服履物等日用品の購入払下は購買会を通じて廉価に行ひ蔬菜類不足の折柄鑛山直営の農園から補給した」

 二つ目の一次史料は注3の佐渡鉱業所『半島労務管理ニ就テ』だ。これは1943年6月7日に佐渡鉱業所を会場として、東京鉱山監督局などが全国の朝鮮人労働者を雇用している鉱山の労務担当者らを集めて開催した「朝鮮人労務者管理協議会」に佐渡鉱業所が提出した報告書だ。在日朝鮮人史を研究している長沢秀という研究者が栖戸静雄という人物からもらったものだ。1983年に長沢が『在日朝鮮人史研究』12号で公表しており、研究者らが広く利用してきた。佐渡鉱業所の内部資料にもとづいて作られたものだから、平井の記述と重なるところが多い。ただ、1943年6月以降の状況は当然ながら書かれていない。

 この史料で明らかになったのは1940年から42年にかけて6回、すべて募集形式で合計朝鮮人労働者の移入が行われたことだ。1940年2月98人、同5月248人、同12月300人、1941年6月153人、同10月127人、1942年3月79人、合計1,005人だ。契約期間は1940年の3回の募集では3年、41年から42年の3回の募集では2年だったこともわかる。

 421人が様々な理由で佐渡鉱山を離れており43年5月末現在で584人の朝鮮人労働者が残っていた。離れた理由も整理されている。死亡10人、逃走148人、公傷送還6人、私傷送還30人、不良送還25人、一時帰還72人、転出130人だ。

 ここで注目したいのは不良送還25人だ。つまり、きちんと働かない者は朝鮮に帰したのだ。強制労働ならそのようなことはしないはずだ。内地で働きたい者にとって「帰還」はある意味の制裁だったのではないか。なお、転出は1943年になって金採掘が停止して戦争物資である銅採掘だけを行うようになり、労働者が余ったため、埼玉県などの工事現場に朝鮮人労働者を送ったものだ。

 また、平均と最高、最低の月収が明らかにされている。1943年4月、平均83.88円、最高169.95円(稼働28日)、最低4.18円(稼働1日)、5月平均80.56円、最高221.03円(稼働28日)、最低6.75円(稼働2日)。出来高払いで賃金が計算されていたので最高と最低ではこれほど差が出るが、当時の東京の公立小学校教員の初任給が50から60円だったから、かなり良い賃金だったことがわかる。これが「強制労働」なのか。

 以上、検討してきたように一次史料から見た佐渡金山での朝鮮人の労働は「強制労働」といわれるような非人道的なものではなかったことがわかる。

 韓国側や一部の日本研究者は朝鮮人が主として危険な抗内作業をさせられていたことをあげて「強制労働」の証拠とするが、出来高制で給与をもらっていた朝鮮人労働者は抗内で働いていたからこそ先に見たような高給を得ることが出来たのだ。短期間で稼ぎたかった彼らと、抗内で働いていた日本人の若い男性が徴兵でとられて人手不足だった鉱山側の利害が一致した結果が朝鮮人の構内作業配置だった。だから、それを持って「強制労働」とするのは不当な見方だ。

 

3 新潟県史と相川町史の「強制連行」記述について

 最後に日本国内でも「強制労働」があったという主張をするマスコミや政党、学者らが多いことを指摘して、それに対する反論を加えたい。

 毎日新聞は2月2日に、私を名指しで批判する古賀攻・専門編集委員のコラム「『捨て身』の佐渡金山」を掲載した。そこで古賀氏はこう書いた。

 〈佐渡金山が「強制労働」の被害地だと反発する韓国に対し、朝鮮研究者の西岡力さんは1月26日産経新聞で、金山で働く朝鮮人労働者は「応募が殺到」し、「待遇も悪くなかった」と反論している。旧相川町が編さんした「佐渡相川の歴史・通史編」(1995年)が元になっている。

 ところが、共産党の志位和夫委員長は1月29日の談話で同じ本に「佐渡鉱山の異常な朝鮮人連行」と書かれているのを引いて、負の歴史に目を向けよと説いた。

 相川町史に先立って刊行された「新潟県史・通史編8・近代3」(88年)にはもっと直截な記述がある。「昭和14年に始まった労務動員計画は、名称こそ『募集』『官斡旋』『徴用』と変化するものの、朝鮮人を強制的に連行した事実においては同質」だったと。

 自治体の独自編さんだとしても、強制連行はなかったと思いたい日本政府にとって、都合の悪い公的通史であるのは間違いない〉

 共産党の志位和夫委員長は1月29日談話でこう主張していた。

 〈アジア・太平洋戦争の末期に、佐渡金山で当時日本の植民地支配の下にあった朝鮮人の強制労働が行われたことは、否定することのできない歴史的事実である。新潟県が編さんした『新潟県史 通史編8 近代3』は「朝鮮人を強制的に連行した事実」を指摘し、佐渡の旧相川町が編さんした『相川の歴史 通史編 近・現代』は、金山での朝鮮人労働者らの状況を詳述したうえで、「佐渡鉱山の異常な朝鮮人連行は、戦時産金国策にはじまって、敗戦でようやく終るのである」と書いている。この歴史を否定することも、無視することも許されない〉

 古賀氏と志位氏に反論したい。歴史を議論する場合、まず大切なのは一次史料だ。「強制労働」あるいは「強制連行」という言葉は当時なかった。日本の朝鮮統治が終わって20年くらいたった1960年代から日本の左派系学者らがその言葉を使い始め、その後に韓国でも使われるようになった。つまり、後世における歴史評価だ。あるいは学説といっても良い。

 古賀氏や志位氏が引用した『新潟県史』と『佐渡相川の歴史』の「朝鮮人を強制的に連行した」「異常な朝鮮人連行」という記述は両書を書いた学者らの学説だ。それも1980年代と90年代というこの問題の研究が左派に支配されていた時代の古い学説だ。

 この古い学説に対して、私は内務省統計という一次史料を使って産経新聞1月26日に〈朝鮮から内地への雪崩のような出稼ぎ渡航があったのだが、それを戦争遂行に必要な事業所に秩序だって送ろうとしたのが戦時動員だった。「強制連行」「強制労働」などとは異なる歴史的事実だ〉と新しい学説を提起して否定した。

 私はこの学説を初めて2005年に出した拙著『日韓「歴史問題」の真実』(PHP研究所)で発表し、その後も研究を続けて2019年に『でっちあげの徴用工問題』(草思社)、2021年に編著『朝鮮人戦時労働の実態』(産業遺産国民会議)でその学説をより発展させた。学問は新しい研究により進歩していく。私の学説を否定するためには古い学説をただ引用しても不十分だ。私の学説の根拠に踏み込んだ反論を求めたい。

 また、私は『佐渡相川の歴史』だけを根拠にして強制労働がなかったと書いたのではない。

 「待遇も悪くなかった」は『佐渡相川の歴史』ではなく、前出の佐渡鉱業所「半島労務管理ニ付テ」(1943年)を根拠としてあげた。当時の状況を知る上で重要な一次資料だ。

 また、古賀氏は言及していないが、私は1月26日コラムで、平井栄一『佐渡鉱山史』をも根拠としてあげている。やはり同書も一級の一次資料だ。

 つまり、私は一次史料を根拠に強制労働はなかったと書いたのだ。ところが、「強制労働」派は私の新しい学説に正面から全く反論せず、古い学説が新潟県や佐渡市の書物に出ていたことをあげつらっているだけだ。このような、国内の不勉強な勢力に対してもきちんと反論をしつつ、韓国と国際社会に対して佐渡金山では朝鮮人強制労働などなかったという歴史的事実を史料に基づいてきちんと広報しつづけ、ユネスコ文化遺産登録をなんとしても勝ち取らなければならない。

 

4 韓国の専門家、鄭惠瓊氏の強制労働説検討

 現在、日帝強制動員平和研究会代表研究委員である鄭惠瓊氏は、日帝強制動員被害者支援財団で長く研究員として勤務し、戦時労働に関する調査研究を進めてきた。韓国側の強制労働派を代表する研究者と言える。

 鄭氏は2019年12月に強制動員被害者支援財団から『日本地域炭鉱・鉱山朝鮮人強制動員実態—三菱鉱業佐渡鉱業を中心に』という調査報告書(以下「鄭1」とする)を出している。

 また、同財団が1月27日に行った学術セミナー日本世界遺産登録推進「佐渡鉱山」強制動員歴史歪曲、で「資料で見る「佐渡鉱山」朝鮮人強制動員実態」(以下「鄭2」とする)という発表を行い、それをセミナー資料集に掲載している。

 鄭は日本人左派研究者の広瀬貞三氏の2000年の論文(「佐渡鉱山と朝鮮人労働者(1939〜1945)」『新潟情報大学情報文化学部紀要』2000年3月、以下「広瀬」とする)に大幅に依拠している。

 西岡が分析したところによると、鄭氏は強制労働論の根拠として以下の①から⑬を挙げている。

①日本人の珪肺感染を防ぐために朝鮮人を動員

②危険な坑内労働を朝鮮人が担った

③請負制度(出来高制)は朝鮮人に不利

④控除が多く手取りは僅かだった

⑤契約終了後も継続就労させた

⑥逃走が多かった

⑦動員された朝鮮人の証言

⑧佐渡では戦時動員政策が始まる前から強制動員

⑨募集も強制動員

⑩募集、官斡旋、徴用全てILO条約違反

⑪朝鮮人の死亡率が高い

⑫供託された労働の対価を受け取れなかった

⑬賃金・待遇や支払い方法を雇い主が一方的に決めた

 

 それらすべては、容易に反論が可能な事実関係があやふやなものや概念整理がおかしいものばかりだ。西岡の簡単な反論をつけていか①〜⑬を紹介する。

 なお、①〜⑤は広瀬論文の主張を、ほぼそのまま書き写している。日本人左派研究者の主張が韓国を動かしてきたという西岡説の正しさがここでも証明される。

 なお、広瀬氏は研究者らしく慎重な物言いで書いているが、鄭氏は乱暴に断定口調でそれを写している。広瀬氏は①で「もしそうであったら」と留保をつけて、③、④で「思われる」と断定を避けて記述している。ところが鄭氏はその部分はすべて削除してあたかも事実であったかのように書いている。

 

①日本人の珪肺感染を防ぐために朝鮮人を動員

広瀬 〈佐渡鉱業所が朝鮮人「募集」を商始した理由を、当時の労務課員は「内地人坑内労務者に珪肺を病む者が多く、出鉱成績が意のままにならず、また内地の若者がつぎつぎと軍 隊にとられたためである」という。もし、これが事実なら、単に日本人の徴兵による労働力不足を柚填するに留まらず、日本人の珪肺感染を防ぐことに狙いがあったことになる。〉7頁[下線西岡以下同]

鄭1〈日本人の珪肺感染を防ぐ、徴兵による人員問題を解決するとい2つの理由から朝鮮人を動員したことが分かる〉120頁

 広瀬は「もしこれが事実なら」と留保をつけているが、鄭は何の根拠も示さないまま断定している。広瀬は『佐渡相川の歴史』に収録されている募集担当者杉本奏二氏の証言を根拠にしている。杉本氏の証言は最初の募集の時期がおかしいこと、動員総数が正しくないなどから信憑性に欠ける。事業所は珪肺感染を防ぐため防塵対策をしており病院もあった。珪肺は一般的に5年以上粉塵を継続して吸引すると発症、朝鮮人労働者の珪肺に多数かかったという事実は確認されていない。

 

②危険な坑内労働を朝鮮人が担った

広瀬〈朝鮮人の割合が高いのは「運搬夫」、「磐岩夫」、「外運搬夫」、「支柱夫」であり、主に坑内労働である。日本人の割合が高いのは、「其他」、「工作夫」、「雑夫」、「製鉱夫」である。日本人が100%の「其他」とは選鉱婦のことであ ろう。これから、「運搬夫」、「襲岩夫」、「支柱夫」という危険な坑内労働を朝鮮人が担ったことがわかる。〉10頁

鄭1〈朝鮮人の場合は、鑿岩夫や運搬夫、外運搬夫といった技術を要しないが、危険な作業が多数を占めている。〉124頁

 朝鮮人労働者が坑内労働を行ったのは、徴兵で内地人の若い男性が払底していたためであり、差別の結果ではない。また、出来高払いのため抗内工はやる気になれば報酬高くなるので短期間で稼いで朝鮮に帰りたかった朝鮮人労働者にとっても利益があった。

 

③請負制度(出来高制)は朝鮮人に不利

広瀬〈元農民である朝鮮人にとって技能が要求される「請負制度」は日本人に比べて不利と思われる。〉11頁

鄭1〈農民出身の朝鮮人に技能が要求される請負制度は日本人に比べて不利だったということである。〉126頁

 広瀬は「思われる」としているが、鄭は根拠を示さず「ということである」と断定している。朝鮮人労働者の平均月収は80円以上、最高月収は200円を超える月もあったから不利とは言えない。

 

④控除が多く手取りは僅かだった

広瀬〈賃金から労働に必要な道具代等が差し引かれるため、実際手もとに残る賃金はごく僅かであったと思われる。〉11頁

鄭1〈賃金から労働に必要な道具代などを差し引かれるため、実際手もとに残る賃金は僅かであったということである。〉126頁

 広瀬は「思われる」としているが鄭は根拠を示さず「ということである」と断定している。しかし、この主張には史料的根拠がない。佐渡鉱山では控除に関する史料はみつかっていない。李宇衍氏の研究によれば日本窒素江迎炭鉱では朝鮮人労働者の平均月収100円でさまざまな控除を引いても手取り42円あった(『反日種族主義』第1部7章90〜91頁)

 

⑤契約終了後も継続就労させた

広瀬〈「募集」の期間は当初3年だったため、佐渡鉱業所では1942年1月から「募集」期限が終了する朝鮮人が順次現れ始めた。佐渡鉱業所の方針は、有無を言わさず「兎モ角全員継続就労ノ事」とすることであった。「爾後各個ノ朝鮮現地家情柄、病弱者等帰鮮若ハ一時帰鮮不得巳ル者ニ対シテハ朝鮮現地官辺並ニ地許警察署ト打合ノ上適時送還ノ事」とした。佐渡鉱業所では「継続就労手続修了者ニハ対シテハ適当時期ニ各個ニ個人表彰状ト相当ノ奨励金ヲ授与」することで、朝鮮人の就労「継続」を計った。これらの事実は「募集」形式でありながら、実態は強制労働であったことをよく示している。〉12頁

鄭1〈1939年2月に割当募集で佐渡鉱山に入島し、3年の期限を終えた鉱夫は、1942 年1月に満期となるため、故郷に帰れるはずであった。しかし、鉱山側は「全員継続就労」方針を定め、朝鮮現地の家庭事情や病弱者など一時帰鮮がやむを得ない場合は、朝鮮現地の官庁及び警察署と協議の上で送還することにした。一時帰鮮の対象者ではない場合は、帰れないことを意味する。就労手続修了者に対しては、適当な時期に個人表彰に相当する奨励金を授与するという方法で、朝鮮人を佐渡島に留まらせていた。帰りたくても自由に帰れない状況があったのであり、それは強制である。〉138頁

 継続就労は強制ではなく利益誘導によって実現している。報奨金、家族呼び寄せ、朝鮮児童のための専門教師配置など事業所は継続就労をしてもらうために様々な利益誘導をしている。佐渡鉱業所では朝鮮人を1500人動員して終戦時に1000人残っていたから3分の1にあたる500人は継続就労しなかった。この統計こそ強制でない証拠だ。

 

⑥逃走が多かった

広瀬〈朝鮮人は逃亡によって自らの健康・生命を守るしかなかった。前掲した表2のように、1940年2月から1943年6月までの3年4ヶ月の間に逃亡者は148名あり、全体の14.8%にも達している。1939年2月の第1陣の朝鮮人は佐渡に来る以前、「下関や大阪に着いてから逃亡した者が多かった」という。〉14頁

鄭1〈それでは、なぜ朝鮮人たちはこのように脱出を試みたのか。そして、なぜ会社側は警察や職業紹介所などによる緻密な捜索システムを稼働したのだろうか。まさにこの点が強制動員否定論者らの主張と違うところである。2019年現在、一部の[韓国人]経済学者は「朝鮮人強制動員はなかった」「朝鮮人は自由な就業をし、金を稼いだ」という主張を出版物や個人配信などを通じて広げている。ところが、強制動員否定論者らが主張する「自由な状態の朝鮮人たち」は、こうして常に脱出を試み、会社と日本公安当局は脱出者の検挙に力を入れていた。鴻之舞鉱業所でも、佐渡鉱山でも、端島炭鉱でも、どこでもそうだった。検挙された者にはリンチと暴行を加えた。書類には「逃走」と記載した。「退社」ではない。常識的に考えて自由な状態ではあり得ない現象である。それは人身の拘束、強制的状態に置かれていたことを示すものに他ならない。〉(66〜67頁)

 〈[表16]中に「逃走」という項目が見られる。逃走率は非常に高い。逃走が入山前後のどの段階でなされたのかは分からない。一般的に強制動員被害者の「脱出」は関釜連絡船に乗せられて日本に着く前、つまり朝鮮でなされる場合が最も多かった。佐渡が島であることを踏まえれば、入山後は難しかったと考えられる。上記の「逃走」を裏付ける事例ではないが、1939年2月に第1陣が入山した当時は 「下関や大阪に着いてから逃亡した者が多かった」という。

 「退社」ではなく「逃走」というのは、朝鮮人鉱夫が現場を自由に離れられなかったということを意味する。〔「逃走」という事実は、労働の〕強制性を裏付ける代表的な事例である〉(121頁)

 事業所に到着する前の途中で逃げる者がいたのだから、逃亡の理由を過酷な労働環境のためとは言えない。よりよい待遇を求めて他の職場に移る目的の逃亡が多かった。

 

 以上で見たように①〜⑥は広瀬氏の主張を鄭氏がそのまま使っている。

 特に、①〜⑤は広瀬論文の主張を、鄭1がほぼそのまま書き写している。

 ただし、広瀬氏は①で「もしそうであったら」と留保をつけて、③、④で「思われる」と断定を避けて記述しているが、鄭1はその部分はすべて削除して、根拠を示さずあたかも事実であったかのように断定している。

 以下⑦〜⑬は広瀬論文にはない主張で、鄭氏が独自に強制労働の根拠として挙げているものだ。

 

⑦動員された朝鮮人の証言

鄭2〈「強制連行の文書があれば出せ!」、日本軍慰安負被害問題を巡る攻防で常套句の加害者側レトリックである。彼らは「実証」という名分を掲げ、「被害者は公的文書を残せない」という点を弱点とし攻撃の口実として活用する。この様な戦略はホロコースト否定論者がやってきた方法でもある。「ナチがホロコーストを実行したなら、ヒトラーの命令が残した文書がなければならないが、その様な文書は一通も見つからなかった」という式である。

 被害者は公的文書を残す事は出来ないが記録を残す事が出来る。その内の一つは韓国政府が生産した記録であり、もう一つは経験者の口述である。〉23〜24頁

 鄭は根拠なしに朝鮮人戦時動員をナチのホロコーストと同様なものとしている。これは事実に反する許しがたい誹謗中傷だ。また、ホロコーストの被害者らは、ホロコーストは唯一無二の犯罪としており、朝鮮人戦時動員や慰安婦制度などにその言葉を使うことに拒否感を表明している。

鄭1〈強制動員を経験し、生き残るために脱出を敢行した鉱夫にとって佐渡での生活は辛い記憶であった。

1919年12月20日に忠清南道論山郡に生まれ、1940年11月、佐渡に動員された林泰鍋(イム・テホ)がその体験者である。1997年9月死亡するまで神奈川県川崎市に住んでいた林泰鍋は、1997年5月、死亡する直前に長くない口述を残した。この口述は、佐渡鉱山生存者による現存する唯一の口述記録である。〉100頁

 鄭がここで紹介しているのは、日本で2002年に出版された、朝鮮人強制連行真相調査団『朝鮮人強制連行調査の記録-関東編』に収録されている林泰鍋の証言だ。この林の証言には疑問点多く信憑性低い。以下その疑問点を鄭の記述に即して指摘する。

 まず第1の疑問は、1940年募集の時期に佐渡に渡った林が「徴用」で動員されたと言っていることだ。まず、鄭が要約した林の証言を引く。

〈林泰鍋は1940年11月「募集」の形で、若い仲間たちと一緒に船に乗って日本の地を踏んだ。二十歳の青年だった。狭い船の中は朝鮮人で溢れていた。新潟県佐渡島に着いてみたら山の奥地の山頂に飯場(労働者宿舎)があった。相川というところだった。故郷を離れる時には「募集」と言われて「自由募集」と思っていたが、到着して「徴用」ということが分かった。1940年11月「募集」の形で佐渡に渡るが到着して「徴用」ということが分かった〉100頁

 さすがに鄭もこの証言はそのままでは信じられないと思ったのだろう。次のようなこじつけ的な解説を付けた。

〈彼が動員された1940年11月に入山した朝鮮人鉱夫はみんな「割当募集」という形で動員された。林泰鍋の口述は、「自由な状態の労働者」と思って行ったが「強制的状態の労務者」であったという意味だろう。動員の形は割当募集であったが、被害者たちが体感したのは「徴用」のような強制動員であった。〉101頁

 徴用は1944年9月から始まった。40年11月の時点では募集だった。鄭の解説はまったく説得力がない。

 2番目の疑問は宿舎から作業場まで歩いて一時間半もかかったと言っていることだ。

〈飯場から作業場までは歩いて1時間半もかかったが、平坦な道ではなく、上り下りが激しく荒い道だった。暑い夏ももちろん辛かったが、寒い冬は言葉にできないくらい苦しかった。雪が腰のあたりまで積もっていたので、作業場に着くまで、また、帰りの道のりも仕事以上に辛かった。〉100頁

 私の現地調査の結果、朝鮮人寮と作業現場の距離は歩いて30分もかからないことが分かった。そもそも、そのように遠いところになぜ、宿舎を作るのか、あり得ない記述だ。

〈林泰鍋の仕事は地下での鉱石採掘だった。地下での作業は死と裏腹の危険な仕事だったので、毎日が恐怖そのものであった。毎日のように落盤があり、「今日は生きてこの地下から出られるか」と気を揉みながら生きた。死んだ後も人間らしく扱われず、何の弔意もなかった。〉100頁

 毎日のように落盤事故があったら当然、記録があるはずだが、そのような記録はない。佐渡金山は固い岩盤でできていて落盤事故はほぼ起きない。事故で死亡した朝鮮人労働者が1943年5月まで10人いたが、当然のことだが丁重にともらい遺骨は家族の元に届けている。「勤続三ヶ月以上ニ及ビタル時ハ団体生命保険ニ加入セシメ各人在籍中ノ保険料ハ一切会社負担シ万一不幸アリタル場合保険金三百円ヲ増呈ス」(佐渡鉱業所「半島労務管理ニ付テ」)とされており、死亡した場合、保険金が支払われた。

 林は自分も事故で大けがをしたが、病院に連れて行ってもらえず放置されたと語る。

〈林泰鍋は運が良かったか幸い生き残った。しかし彼も地下での作業中、梯子から落ちて大怪我をしたが、命拾いした。地下から外に運ばれる時までは意識があったが、その後意識を失った。意識が戻った時にいた場所は病院ではなく、飯場の布団の中だった。腰を強く打ったため立ち上がることも病院に行くこともできず、 10日ほどを横になったまま過ごした。やっと立ち上がることができるようになったが、また仕事に復帰しなければならなかった。病気になっても2日以上は休めないのに、もう10日も仕事をしていなかった、これ以上休むことは決して許されなかった。〉100〜101頁

 鉱業所は労働者とその家族のために病院を持っていた。労働者不足のため朝鮮人労働者を呼び寄せたのであるから、労働力を確保するためにも病院に運ばないことはあり得ない。佐渡鉱業所の前掲史料によると月に数日しか働いていない朝鮮人労働者もいたことが明らかになっているから、歩合制のため給料は出ないが休もうと思えば休めたのだ。

 

⑧佐渡では戦時動員政策が始まる前から強制動員

鄭1〈佐渡鉱山は[朝鮮人動員開始]に先駆けて1939年2月から朝鮮人動員を始めた。その理由は佐渡鉱山側が朝鮮人を請負制度によって動員し、利用しようとしたからである。佐渡鉱山では政府当局が政策を打ち出す前から強制動員が行われていたのである。〉117頁

 『佐渡相川の歴史』に収録されている杉本氏の発言を根拠にしていると思われるが、その発言は前掲の史料で否定されている。

 

⑨募集も強制動員

鄭1〈割当募集は強制動員ではないのか。それは強制動員に当たる。日本当局が実施した強制動員には人的・物的・資金などの動員 があり、人的動員されたものは労務者、軍人・軍属・日本軍「慰安婦」などである。割当募集は労務者を動員するための一つの形である。したがって当然、強制動員に当たる被害類型である〉120頁

 先述の通りの根拠の薄い古い学説だ。

 

⑩募集、官斡旋、徴用全てILO条約違反

鄭1〈日本政府は1938年の国家総動員法という法的根拠に基づいて総動員システムを設け、帝 国日本全域を対象にして人的・物的・資金を総動員し、アジア太平洋戦争を遂行しようとした。この人的動員は日本自らが批准したILO29号条約に違反するものだった。〉120頁

 ILO29号条約では戦時労働動員は強制労働に含まれないと規定している。すなわち、同条約2条は次のように例外規定を置いている。

「第 二 条

1 本条約ニ於テ「強制労働」ト称スルハ或者ガ処罰ノ脅威ノ下ニ強要セラレ且右ノ者ガ自ラ任意ニ申出デタルニ非ザル一切ノ労務ヲ謂フ

2 尤モ本条約ニ於テ「強制労働」ト称スルハ左記ヲ包含セザルベシ

 (a) 純然タル軍事的性質ノ作業ニ対シ強制兵役法ニ依リ強要セラルル労務

 (b) 完全ナル自治国ノ国民ノ通常ノ公民義務ヲ構成スル労務

 (c) 裁判所ニ於ケル判決ノ結果トシテ或者ガ強要セラルル労務尤モ右労務ハ公ノ機関ノ監督及管理ノ下ニ行ハルベク且右ノ者ハ私ノ個人、会社若ハ団体ニ雇ハレ又ハ其ノ指揮ニ服セザル者タルベシ

 (d) 緊急ノ場合即チ戦争ノ場合又ハ火災、洪水、飢饉、地震、猛烈ナル流行病若ハ家畜流行病、獣類、虫類若ハ植物ノ害物ノ侵入ノ如キ災厄ノ若ハ其ノ虞アル場合及一般ニ住民ノ全部又ハ一部ノ生存又ハ幸福ヲ危殆ナラシムル一切ノ事情ニ於テ強要セラルル労務」

 この2項の(d)にある「戦争ノ場合…ニ於テ強要セラルル労務」に朝鮮人戦時労務動員は当然含まれる。

 

⑪朝鮮人の死亡率が高い

鄭1〈死亡者10名は当時の日本地域における炭鉱・鉱山労務者の死亡率に比べて高い比率である。日本における朝鮮人労務者の死亡率は0.9%(1939.10~1942.10基準)である〉121頁

 1005人のうち10人は1%、平均0.9%とほぼ同じだ。

 

⑫供託された労働の対価を受け取れなかった

鄭1〈佐渡鉱山の朝鮮人1,140名の供託金額は 231,059円59銭である。この記録には2つの意味がある。一つは、少なくとも1,140名の朝鮮人が強制動員されたこと。もう一つは、彼らの給与と貯蓄、各種保険金を支払わずに供託したということである。しかも、供託記録には個人別の情報がないため、個別性も確認できない。朝鮮人鉱夫が貯蓄通帳にお金が貯まることを期待し、希望を抱いていた労働の対価は供託され、消えたままである。〉(128頁)

 1965年の日韓請求権協定で解決済みだ。日本からの資金を受け取った韓国政府は2度にわたって未払い給与や貯金などを払い戻した。

 

⑬賃金・待遇や支払い方法を雇い主が一方的に決めた

鄭1〈賃金を受け取ったかどうか、賃金が多いか少ないか〔という賃金論〕は、強制性とは無関係であるということである。戦時体制期の「労務者」は労働者ではなかったことを理解すべきである。「労務者」は日本の国家権力が制定した法に基づき、または資本家との契約関係に基づいて、労働条件を確保したり、労働者の権利を主張したりすることはできなかった。「労務者」の賃金をはじめすべての待遇は、雇い主が一方的に決め、賃金の支払方法も一方的に処理されていた。それにもかかわらず、2019年現在、韓国国内の強制動員否定論者らは賃金を受け取っていたことを強制性の否定の根拠として提示している。それは当時の体制と時代状況を十分理解していない主張である。〉(128〜129頁)

 どこの国の戦時労働動員で労働条件の権利を主張できたのか。合法的な戦時労働動員は強制労働とは言えない。

 

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