勝岡寛次「戦後日本における朝鮮人戦時労働研究史」

発表2 

勝岡寛次(歴史認識問題研究会事務局長)

 

      戦後日本における朝鮮人戦時労働研究史 

 

1 「強制連行」という言葉は、80年代以降に一般化した

 「強制連行」という言葉は、今でこそ普通に使われているが、戦時中にはなかった言葉である。従って、「強制連行」という言葉の出自、使われ始めた経緯については、それ自体が研究の対象になり得る。

 「強制連行」という言葉が、戦時中からあった「徴用」という言葉に取って代るようになったのは、一体いつからなのだろうか。

 鄭大均によれば、「朝鮮人強制連行」という語の初見は1960年だそうだが(『在日・強制連行の神話』文春新書、2004)、後世に与えた影響という点で言えば、朴慶植が1965年に書いた『朝鮮人強制連行の記録』(未来社)が、歴史認識問題としての「朝鮮人強制連行」の起源と言ってよさそうである。「強制連行」を運動として推進する人々にとっては、この本は一種の「バイブル」であり、今日でも「金字塔」として高く評価されている。

 しかし、この本によって直ちに「強制連行」という歴史認識が一般化したわけではない。

 「強制連行」という用語が一般化するのは、1980年代以降なのである。筆者は朝日新聞のデータベースで、「強制連行」の語が現れる頻度を、中国人・朝鮮人・慰安婦のそれぞれについて調査したことがあるが、「朝鮮人強制連行」がマスコミで盛んに報じられるようになったのは80年代半ば以降のことであることが判明した。

 (西岡力編『朝鮮人戦時労働の実態』一般財団法人産業遺産国民会議、2021、79頁)

 

 

 他方、朝鮮人強制連行に関する研究文献を調査すると、1950年代から60年代にかけては「強制連行」論は主流ではなかった。森田芳夫が指摘したように、来日した朝鮮人の多くは出稼ぎであり、より良い生活をするために日本に来たのだという常識的見解が主流だった。朴の『朝鮮人強制連行の記録』は、これに対する「アンチテーゼ」として出されたもので、やがて70年代から80年代にかけて、「強制連行派」の方が学界の主流となっていく。

 これに対し、「強制連行」を批判する文献は、朴が「強制連行」を提起した1965年以降、四半世紀もの間、全く存在しなかった。「強制連行」批判派の文献が現れるのは、日本では90年代以降のことなのである。「強制連行」「強制労働」を批判する保守派の文献は、量的に言っても「強制連行」肯定派の文献の十分の一にも満たない状態が、今日でも続いている。(拙稿「朝鮮人・中国人「強制連行」運動史」、西岡力編『朝鮮人戦時労働の実態』一般財団法人産業遺産国民会議、2021)

 朴慶植の『朝鮮人強制連行の記録』に端を発する「強制連行」肯定派が、学界の主流を占める状態は、今日においても変らないのである。

 

2 在日朝鮮人運動史研究会と『在日朝鮮人史研究』

 朴は1976年に「在日朝鮮人運動史研究会」を組織したが、同研究会の機関誌『在日朝鮮人史研究』は、朴を師と仰ぐ多くの研究者を輩出してきた。佐渡金山の「強制連行」問題も、そうした流れの中の一部として位置づけられる。

 というのは、新潟県下の朝鮮人「強制連行」「強制労働」問題を扱った文献の多くが、『在日朝鮮人史研究』誌に発表されているからである。

 例えば、次のような文献がそうである。

・資料「佐渡鉱業所 半島労務管理ニ付イテ」、『在日朝鮮人史研究』12号、1983

・佐藤泰冶「新潟県中津川朝鮮人虐殺事件」、『在日朝鮮人史研究』15号、1985

・橋沢裕子「新潟県における朝鮮人労働運動」、『在日朝鮮人史研究』17号、1987

・長澤秀「新潟県と朝鮮人強制連行」、『在日朝鮮人史研究』19号、1989

 これらはいずれも(最初は資料なので例外だが)、朴慶植の『朝鮮人強制連行の記録』を受けて、その問題意識を新潟県下の歴史事象にそのまま持ち込んでいる点が共通している。長澤秀「新潟県と朝鮮人強制連行」では、佐渡金山について「一九四二年頃までは当鉱山だけで県内への朝鮮人強制連行数の半分以上を占めていた」(6頁)と述べているものの、一方では次のように述べ、研究の蓄積が殆どないことを指摘している。

《新潟県における朝鮮人強制連行について『新潟県史』(新潟県編 一九七〇~)や各市町村史は、ほとんど触れていない。また、一般の研究も最近始まったばかりで、研究成果はまだわずかである。》(1頁、註(2))

 80年代末の時点では、このような研究状況だったのである。

 

3 状況を一変させた、『新潟県史』と相川町史の「強制連行」記述

 この状況を一転させたのが、『新潟県史』(通史編8(近代3)、新潟県、1988)の記述である。そこには、「強制連行された朝鮮人」(第4章第2節五)の項が設けられ、「朝鮮人強制連行と新潟県」の小見出しでは、次のように断言していた。

《昭和十四年(一九三九)に始まった労務動員計画は、名称こそ「募集」「官斡旋」「徴用」と変化するものの、朝鮮人を強制的に連行した事実においては同質であった》(782頁)

 この項を執筆したのは佐藤泰冶だが(同書の執筆者一覧、878頁)、佐藤は朴を師と仰ぐ前掲の在日朝鮮人史研究会のメンバーで、師の「朝鮮人強制連行」説に従ってこれを書いたものと思われる。しかし、「募集」も「官斡旋」も、強制力を有する「徴用」さえも、当時の国際法に照らして「強制連行」とは言えないことは明白である。このような、明らかな虚偽の事実が『新潟県史』という公的な刊行物に掲載されたことは大問題だが、これが今日まで続く佐渡金山の「朝鮮人強制連行」問題の起点になっている、と言えよう。

 『新潟県史』に続いて、佐渡金山のある相川町の町史『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代、相川町、1995)も「朝鮮人労務者の動員」の小見出しで、県史の記述を踏襲して次のように書いている。

《戦争中たくさんの朝鮮人の人たちが、鉱山へきて働いた。「昭和十四年に始まった労務動員計画は、名称こそ募集、官斡旋、徴用と変化するものの、朝鮮人を強制的に連行した事実においては同質であった。」(『新潟県史』近代篇一〇)と指摘されるように、…十七年一月には県内への連行者は一七〇八人を数えたとされ、もっとも多かったのが佐渡鉱山の八〇二人(小沢有作編『近代民衆の記録』一〇、在日朝鮮人)である。(中略)佐渡鉱山の異常な朝鮮人連行は、戦時産金国策にはじまって、敗戦でようやく終るのである。》(679-684頁)

 このように、相川町史は『新潟県史』を踏襲し、『新潟県史』は朴慶植の『朝鮮人強制連行の記録』を踏襲しているため、朴の本と『新潟県史』・相川町史は「一蓮托生」の関係にある、と言っても過言ではない。

 

4 「強制連行」派も認めた、朴の誤り

 ところが、「強制連行」の用語には、「強制連行」派の人々の間にも強い批判がある。

 例えば、朴の後継者と目される金英達は、「強制連行」の用語の不備を指摘し、はっきり批判している。

《「強制連行」は、その定義が確立されておらず、人によってまちまちな受け止め方がなされている。(中略)その実質や程度について共通理解が確立されないまま、強制連行という言葉だけがひとり歩きして、あたかも特定の時代の特定の歴史現象をさししめす歴史用語であるかのように受け止められていることに混乱の原因がある。

 したがって、「強制連行」という言葉を使う人は、それぞれに、あらかじめ用語の意味と範囲をはっきりと示さなければならない。ただ、そうすると、朝鮮人の日本への渡航はすべて「強制連行」だと定義する人から、国民徴用令によって徴用された朝鮮人労働者だけが「強制連行」だとする人や、日本人も含めて法的強制力によって戦争に動員された者はすべて「強制連行」だと主張する人々も出てきて、おそらく百家争鳴の状態になって、ますます混乱するのではないだろうか。

 そこで、私の提案として、戦争中の朝鮮人に対する強制的な戦争動員については、総称として「戦時動員」という用語を使い、その戦時動員のなかの具体的な現象の一つであった暴力的な動員が「強制連行」であると概念を再構成してみたらどうかと思うのである。》(金英達『朝鮮人強制連行の研究』金英達著作集Ⅱ、明石書店、45-46頁)

 このように金英達は、朴慶植が最初に使用し、広めた「強制連行」の概念が曖昧なことから、様々な混乱が生じていることを認め、「戦時動員」の語を提案した。

 しかし、金が早くに亡くなったこともあり、「強制連行」をめぐる議論は、今日では益々混乱していると言っていい。『新潟県史』や相川町史が、「募集」「官斡旋」「徴用」を全て「朝鮮人を強制的に連行した事実においては同質」と認めた例などは、その最たるものであろう。

 

5 官民共同で「歴史の事実」を明らかにしたい

 朴慶植の志を、90年代に運動面で支えたのが「朝鮮人・中国人強制連行・強制労働を考える全国国民集会」であり、2005年以降は「強制動員真相究明ネットワーク」(共同代表 庵逧由香・飛田雄一)だが、彼らは佐渡金山問題でも韓国と密接に提携して運動している。

 例えば、韓国の東北アジア歴史財団は2月16日に「日本佐渡鉱山 世界遺産登録強行についての対応と展望」という学術セミナーを開催したが、その第一発表者は強制動員真相究明ネットワーク事務局次長の小林久公だった。

 小林は「佐渡鉱山世界遺産登録に関する趣旨と経過、最近の動きなどを中心に」というテーマで発表しているが、その中で次のように述べている。

現在の岸田総理大臣も安倍氏同様に胸に青いバッチを着けているが、その歴史認識・価値観は、歴史の事実に基づかず、虚構を事実として捏造し、自己満足するだけのものである。この価値観は「人類全体のため〔の〕遺産」という世界遺産の価値観からかけ離れたものであり、世界遺産を自己の遺産に変質させている。》

 北朝鮮の拉致被害者救出を忘れないためのシンボルである「青いバッチ」を、総理が胸に付けただけで、「その歴史認識・価値観は、歴史の事実に基づかず、虚構を事実として捏造し、自己満足するだけのものである」と断言して憚らない人々。「歴史の事実に基づかず、虚構を事実として捏造」しているのは、果してどちらなのだろうか。

 強制動員真相究明ネットワークは1月25日に緊急声明を出しているが、その中では次のように述べている。

《佐渡鉱山(「佐渡島の金山」)のユネスコ世界遺産登録に関し、日本政府は2022年1月21日の記者会見で、「佐渡の金山に関する韓国側の独自の主張につきましては日本側として全く受け入れられない」(木原官房副長官)と述べ、昨年末、韓国外交部に抗議したことを明らかにしました。日本政府は公式に韓国側の戦時の朝鮮人強制労働に関する主張を否定したのです。

(中略)

日本による総力戦体制の下、戦時の労務動員政策によって朝鮮半島から日本へと約80万人が強制的に動員されたことは歴史の事実です佐渡鉱山が強制労働の現場だったという韓国側の主張は事実です。それを「独自の主張」として「受け入れられない」とする姿勢は、強制労働の歴史を否定するものです。日本政府は歴史を否定せず、この機会に強制労働の真実を認めるべきです。韓国側の批判を問題とするような対応は、間違いです。》

 「歴史の事実」「強制労働の真実」というが、彼らの言う歴史の「事実」とは、朴慶植が半世紀前に著した『朝鮮人強制連行の歴史』を、金科玉条のようにして振りかざすだけの、歴史事実の裏付けのない「強制連行」「強制労働」の主張に過ぎない。

 その主張は、今日では韓国の学者からも異論が噴出しており、日本側の主張する「強制連行」「強制労働」は全否定されている事実がある(『反日種族主義』『反日種族主義との闘争』)。

 本日も、韓国の発表者の方から、その旨の反論があると聞いているので楽しみにしているところだが、我々は何が「歴史の事実」かを見極め、韓国側の理不尽な主張に対しては、官民一体となって歴史戦を戦わなければならない。またその際、我々の主張に同意して下さる韓国の方々がおられることは、誠に心強い。

 共に手を携えて、歴史の事実を明らかにしていきたい。

 

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