長谷亮介「佐渡金山の朝鮮人戦時労働の実態」

発表4 

長谷 亮介(歴史認識問題研究会研究員)

 

        佐渡金山の朝鮮人戦時労働の実態 

 

1 佐渡金山に関する一次史料

 現段階で佐渡金山に関する一次史料は次の6点を確認できる。①平井栄一編『佐渡鉱山史 其ノ二』(1950年)、②佐渡鉱業所「半島労務管理ニ付テ」(1943年6月)、③日本鉱山協会『半島人労務者ニ関スル調査報告』(1940年12月)、④「帰国朝鮮人に対する未払賃金債務等に関する調査結果」(『朝鮮人の在日資産調査報告綴』所収)及び「経済協力・韓国105・朝鮮人に対する賃金未払債務調」、⑤朝鮮人煙草配給名簿、⑥『特高月報』に記載されている佐渡関連記事である。

 ①と②に関しては西岡発表で説明がなされているので割愛したい。③は日本鉱山協会が国内の重要鉱山84か所に対して行った調査であり、朝鮮人労働者の待遇などが記されている。④は戦後、朝鮮人の未払賃金などに関する調査と供託についての公文書であり、佐渡金山に関しては「帰国朝鮮人に対する未払賃金債務などに関する調査」が残っている。1,140名分の23万1千59円59銭が記されているのみである。⑤は佐渡鉱業所が当時管理していた相愛寮(全4ヵ所)と社宅に居住していた朝鮮人名簿である。1943年及び1945年に会社が煙草を支給する過程で作成され、一部分ではあるが、名簿には朝鮮人463人の名前と生年月日、移動関連情報などが記されている。⑥の『特高月報』には戦時中に佐渡金山で起こった朝鮮人の争議事件が3件、逃亡事件が5件記されている。

 

2 先行研究の内容

 佐渡金山における朝鮮人労働者を考察した先行研究で代表的なものは1988年に新潟県から発行された『新潟県史 通史編8(近代3)』(以降『新潟県史』と省略)、1995年に相川町から発行された『佐渡相川の歴史 通史編 近・現代』(以降『佐渡相川の歴史』と省略)が存在する。前者には「強制連行された朝鮮人」という項目が設けられており、1939年から開始された募集時期から朝鮮人を強制的に連行してきたと説明している。その他に、佐渡鉱業所は朝鮮人労働者に対して民族差別を持っており、強引な契約更新や朝鮮人を削岩や運搬などの危険な仕事に就かせていたと述べている。これらの主張は②の「半島労務管理ニ付テ」を根拠としている。

 後者も朝鮮人を強制的に連行したと説明しており、佐渡鉱山労務課の杉本奏二の証言として、日本人坑内労務者に珪肺を病む者が多いことと日本人の若者が次々に軍隊に取られたために朝鮮人募集を開始したことを記載した。

 個人の論文としては、長澤秀や佐藤泰治などの論文があるが、2000年に発行された『新潟国際情報大学情報文化学部紀要』第3号掲載の広瀬貞三「佐渡鉱山と朝鮮人労働者(1939~1945)」が詳細にまとめられている。先に紹介した一次史料以外にも当時の新潟県の新聞や長澤、佐藤などの先行研究も参照にしながら佐渡金山における朝鮮人労働者の実態を考察している。広瀬は同論文で、朝鮮人労働者は民族差別を受けながら強制労働を受けていたという結論を下している。

 広瀬の主張する民族差別とは、『佐渡相川の歴史』と同様に「半島労務管理ニ付テ」を参照にして、削岩や運搬といった危険な坑内労働に就いた労働者の割合が日本人よりも朝鮮人の方が大きいことを指している。また、労務課の杉本の珪肺に関する証言を引用して、労働力不足の補填に止まらず、日本人の珪肺感染を防ぐ狙いがあったと考察した。この点に関しては、広瀬は1944年に佐渡鉱業所の珪肺を調査した齋藤謙の「珪肺病の研究的試験・補遺」を引用し、珪肺にかかる原因となる粉塵の平均吸引量が削岩、運搬、支柱の仕事に就いている者に多かったことを紹介している。これらの職種の比率が高かったのは朝鮮人であり、この記録は朝鮮人を対象にした調査であろうと広瀬は考察している。

また、朝鮮人の賃金に関しては、元農民である朝鮮人では「請負制度」の給料では日本人に比べて不利であり、道具代などが差し引かれて朝鮮人の手元に残る賃金はごく僅かであったであろうとも述べている。朝鮮人は2年から3年の労働契約を結んでいたが、佐渡鉱業所は有無を言わさず強制的に契約を更新させたとして、これらを強制労働の証拠として挙げている。

 

3 先行研究の内容整理と一次史料の確認

 以上、先行研究の簡潔な説明を行ったが、重要な点は朝鮮人の強制連行に関する具体的な考察がなされていないということである。『新潟県史』は1939年に開始された募集から1944年に開始される徴用までを問答無用で「強制連行」と決めつけており、学術的な考察は一切行われていない。これは1965年に朴慶植が『朝鮮人強制連行の記録』(未来社)を発行したことをきっかけに募集から徴用までが「強制連行」とされ、十分な検証もないまま日本の学界の「常識」となってしまったことが大きな原因であろう。

 しかし、強制連行を否定する一次史料は多く残っている。例えば、佐渡金山と同じ三菱系列である直島精錬所の募集状況を記した石堂忠右衛門の手記(所収:林えいだい編『戦時外国人強制連行関係史料集 Ⅳ上巻』明石書店、1991年)には採用に落ちた朝鮮人(昭和15年3月20日)や替玉(同3月26日)、車中で大合唱する朝鮮人たちの「学生の修学旅行気分」の様相(同3月27日)が描かれている。内容を無視して強制連行関係史料集に収録されていることから当時の「強制連行」説がどれほど根拠薄弱か分かるだろう。

 さらに、『新潟県史』の「強制連行された朝鮮人」が設けられた章を担当した執筆者は佐藤泰治である。佐藤は朴慶植が立ち上げた『在日朝鮮人史研究』にも投稿したことがあり、彼も「強制連行」説の支持者であったことが窺える。つまり、中立的な第三者が執筆した県史ではなかったのである。

 『佐渡相川の歴史』で注意しなければならないのは、一次史料と証言の内容が混合している点である。文書として残っている当時の史料と年月が経って思い出す証言とでは内容の乖離が生じる可能性がある。事実、同書で紹介されている杉本は1945年3月の最終募集時点で「総数千二百人」が佐渡鉱山に来たと述べている。しかし、一次史料である平井の『佐渡鉱山史 其ノ二』では1519名と記されている。300人の誤差は大きい。他にも、杉本は最初の募集開始時期を1939年2月と言っているが、平井や「半島労務管理ニ付テ」は1940年2月と記している。杉本が正確に当時を覚えて発言しているかの検証が必要である。

 また、佐渡金山で発生した朝鮮人の争議事件が起こった原因を労務や勤労課職員の一部に極端な差別意識を持った人がかなりいたと当時の労務担当者が回想したという記述があるが、誰が話したのかという重要な情報が欠落している。杉本であれば名前を書くであろうから、この「当時の労務担当者」は杉本とは別人物である可能性が高い。仮名の人物が語る回想を無批判に受け入れることは危険である。

 

4 坑内作業への配置と珪肺の発症率

 先行研究が一次史料を用いて佐渡金山を強制労働の現場と判断している事柄は朝鮮人の坑内作業配置と珪肺が代表的である。まず、削岩や支柱などに朝鮮人が多く割り当てられたことは差別かを考察したい。

 杉本は珪肺のことを話しているが、根本的な問題は日本人男性が次々に軍隊に取られたために起こった人手不足である。そこに朝鮮人男性が充てられたに過ぎない。さらに、徴兵以前に満州への移住政策で新潟県内の人口は減少していた。山川出版社の『新潟県の歴史』(1998年)では新潟県から中国の満州国への集団開拓団送出は1937年から1945年5月までに1万2600名以上で、これは全国で5位の送出数であったと記している。また、佐渡金山の岩盤は硬いので、落盤の危険は少なかった。佐渡に伝わる伝統芸能「やわらぎ」は石が柔らかくなることを祈るために神社の前で歌う神事芸である。

 珪肺に関して、広瀬は齋藤論文を朝鮮人労働者を対象にした調査と考察しているが、実際に齋藤の論文を読んでみると、珪肺の第一段階(Ⅰ期)になるまでに最短でも4年11ヶ月かかると記されている。朝鮮人は契約により2年から3年までしか働かない。契約を更新したとしても5年間働き続けた者は少数であったと考えられる。なお、1953年に発行された『新潟医学会雑誌』に掲載されている丹野清喜の論文「珪肺症の精神機能に就て」では、珪肺で重症となるのは珪肺Ⅱ期からであり、珪肺Ⅰ期は作業負荷をかけた場合以外は健常者と明らかな差異は認められないとしている。表1からでも分かるように、勤続年数を考慮すれば対象となったのは朝鮮人ではなく日本人であったと考えるのが妥当であろう。

 さらに、1954年に丹野清喜が「職種別稼働年数により見たる珪肺発生率及び進展度」(所収:『新潟医学会雑誌 第68年第9号』)を発表し、珪肺の原因である粉塵環境と罹患率の関係性はないと断言している。丹野は1951年に佐渡と思われる鉱業所(S鉱業所)の協力を得て、削岩、運搬、支柱作業が一番粉塵を吸引する環境であると認めている。

 

 

表1 齋藤謙「珪肺症の研究知見補遺」(『北越医学会雑誌 第59年第6号』、1944年)による珪肺発症までにかかる年数(論文を基に長谷が表を作成)

 

表2 丹野清喜「職種別稼働年数より見たる珪肺発生率及び進展度」に掲載されている「坑内各職種稼働年数別罹患率」(『新潟医学会雑誌 第68年第9号』、1954年、p.852)

 しかし、例え粉塵が多く舞う環境であっても、坑内作業の継続年数の長さに比例して珪肺罹患率が高くなると主張している。表2を見ると、例え削岩夫でも5年以内の勤務ならば重症と言われる珪肺Ⅱ期に罹る確率は7.9%だったことが分かる。

 以上のことから、削岩や運搬、支柱に朝鮮人が多く割り当てられていたことが民族差別を証明するものではない。したがって、強制労働と断言することもできない。

 

5 一次史料に記載されている朝鮮人労働者の姿

 賃金が朝鮮人の手元にほとんど残らなかったという主張については、発表1の西岡報告書で反論している。本報告書で紹介した③日本鉱山協会『半島人労務者ニ関スル調査報告』では1940年7月の平均賃金が66円77銭と記載されている。3年後の「半島労務管理ニ付テ」では80円以上になっていることを考えると、朝鮮人は十分な賃金を受け取っていた。この点は『特高月報』に記載されている逃亡事件からでも読み取れる。

 1942年11月分に賃金と食糧に不満を抱いた朝鮮人4名が同僚に逃走援助の依頼として130円を渡している。一人当たり30円以上の金銭を所持していたことになり、逃走後の交通費や食糧費を考えればさらに所持金を持っていた可能性もある。また、1943年2月分でも同様の動機で女性朝鮮人労働者4名が逃走援助のために75円を渡している。朝鮮人は劣悪な環境から生命を守るために逃走したのではなく、より良い待遇の職場へ移動したかったのである。

 契約の強制的更新によって帰郷できなかったという点に関しては、⑤の朝鮮人煙草配給名簿の中から満期帰郷による異動届が確認されている。

 歴史認識問題研究会が入手した史料は1945年4月22日に作成されたもので、契約満期で帰郷する11名の朝鮮人の名前が記されている。終戦直前でもこれ程の人数が帰郷できたことを考慮すると、以前にも帰郷した朝鮮人が存在した可能性もある。さらに、この異動届には帰郷者全員に10日分の煙草を支給することが記されている。当時の煙草は貴重品であり、それを気前よく支給されている朝鮮人を奴隷労働者と表現することは適切であろうか。「半島労務管理ニ付テ」では契約更新者には奨励金が与えられ、継続奨励に相当の効果があったことが明記されている。

 一次史料を読み込めば、佐渡金山が強制労働の現場ではなかったことが分かる。

写真:歴史認識問題研究会が入手した第三相愛寮朝鮮人労働者11名の満期帰郷による異動届

 

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