李宇衍「1940~5年 佐渡鉱山朝鮮人労働者の移住、動員、勤労環境、及び日常生活  ―『強制連行』・『強制労働』論批判―」

報告5

李宇衍(落星台経済研究所研究委員)

 

 1940~5年 佐渡鉱山朝鮮人労働者の移住、動員、勤労環境、及び日常生活 
  ―『強制連行』・『強制労働』論批判―

 

1,朝鮮人の戦時動員はどのように行われたか

 戦時期における佐渡鉱山への朝鮮人移民と動員に対する韓国と日本のマスコミ報道と先行研究は、そのいずれもが非専門家や「専門家」と称する研究者が1965年に出版された『朝鮮人強制連行の記録』をコピーしたに過ぎない。この本の著者は朝総連の朝鮮大学校教員であり、その目的が韓日国交回復を阻止するためであることを隠さなかった。彼は、朝鮮人を日本に連行する過程は「奴隷労働」即ち「強制連行」であり、日本での労働は「奴隷労働」即ち「強制労働」であったと主張した。

 朝鮮人を動員する方法は「募集」、「官斡旋」及び「徴用」があったが、募集は日本から会社職員が来て農民に公知し、文字通り募集すること。「官斡旋」は募集と同一であるが、面と駐在所が日本から派遣された募集担当者を法律的規定なしに行政的に支援するもの、「徴用」は法的強制(応じない場合、一年以下の懲役や一千円以下の罰金、1939~45年、ソウル米一石卸売価格で38~47円、金洛年、朴キジュ、朴イテク、車明洙編(2018)『韓国の長期統計II』p.822)下で施行された。但し、徴用も令状の発布から始まりその受領、身体検査、検査結果通知を経て、合格者が所定の場所と時間に出頭するまでに約一ヶ月かかる法的手続きを踏み進行されたが、「家で寝ている所を」、「田畑で働いていた所を」、「連行された」という記憶は事実と異なる。これは、韓国戦争における「街頭徴集」(令状なしに学校の前、家や道で強制する徴集)を植民地期の戦時動員と混同したことに起因するものと見られる。

 1939年9月以降の「募集」とは異なり、1942年2月以降「官斡旋」という朝鮮人動員方法は1940年朝鮮総督府の「労務資源調査」に基づく。官斡旋による動員において、朝鮮人の対応とそれによる「強制性」の程度が非常に多様であったのはそれを強制する唯一の規則として、動員方法と不応者に対する処罰を規定する法律がなく、単に日本から渡ってきた会社労務課職員らと朝鮮の面書記と駐在所警察が朝鮮青年を行政的に広報、勧誘又は強制したためである。

 

2,佐渡の事例:賃金に関して

 佐渡鉱山には1939年9月、日本政府による戦時労務動員と1940年2月、佐渡鉱山側による朝鮮人募集以前から朝鮮人が金を稼ぐため日本に渡り就業した出稼ぎ労働者が存在した。彼らは、戦時労働者を指導・管理する役割を果たしたであろう。戦時動員は大きなカテゴリー(日本政府の立場では異なるであろうが)、企業の立場では労働力不足に対する対策であり、朝鮮人には朝鮮半島外への労働力移動、移民という性格を持たせた。この様に見る時、戦時朝鮮人の日本行きは大きなカテゴリーにおいて、解放後の海外移民と連続的な性格を持つ。

 他の事業所と同様に、佐渡鉱山においても1944年9月以降の徴用労働者含め、朝鮮人労働者には賃金が正常に支払われた。強制貯蓄、勤労所得税、健康保険料、年金保険等を控除、その残りを朝鮮人に引き渡したがその項目は日本人労働者と同一であり、貯蓄を除けば控除額は大きくなく、朝鮮の家族に送金したり現地で使用したりする等、自ら決めることが出来た。控除項目で日本人と最大の差があるのは貯金であるが、その理由は日本人と異なり朝鮮人の中には家族がない単身労働者が非常に多く、彼らは貯蓄する余力が日本人家族扶養者より遥かに大きかったためである。

 佐渡鉱山が朝鮮人に支払わなかったり、或いは支払うことが出来なかったりして法務局に供託した金額(佐渡鉱山の場合、一人平均203円)、又その他三菱ともう一つの巨大財閥である三井系列会社の供託金額を1945年頃の月給(佐渡鉱山の場合、平均100円以上)と比べると、その金額は1~2ヶ月の月給に該当するため大変に高額だったとは言えない。第一、逃亡者や終戦後に急遽帰還した者の場合、精算する金が少額で諦めたために逃亡したり、終戦後は精算を待たずして急いで帰国したりした。第二、労働者に引き渡されず控除された金額は、それを放棄する個人の立場ではそれまで正常に受領してきた賃金に比べ少額であった。従って供託金を、賃金を支払わない強制労働の根拠としたり体系的で大規模な搾取の根拠としたりすることは出来ない。

 

3,佐渡の事例:日常生活と待遇に関して

 佐渡鉱山を含み、戦時期日本に渡った朝鮮人の住居(寮使用料、住宅の場合賃貸料、浴場等共同施設は無料又は市場価格より遥かに低い水準であった)、主食(米、麦、豆類、その他)とカロリー摂取は、朝鮮に残った農民より良好であった。終戦直前、朝鮮人と日本人の食糧と献立は同様であり、そのため、朝鮮人が日本人より大食であったので食事量が相対的に不足しており、香辛料(唐辛子、ニンニク等)が提供されず朝鮮人の不満を招いた。終戦直前の凶作と米軍爆撃によって流通体系が円滑に作動しなくなると、朝鮮人は日本人同様に食糧不足により困難を重ねた。以後、日本に渡った朝鮮人と朝鮮に残った農民の生活水準を体系的に比較する研究が必要である。

 佐渡鉱山は他の朝鮮人を動員した事業場に比べ、家族と生活する者が多かった。戦争以前から労働移民として来た朝鮮人、1939年以降戦時労務動員とは無関係に日本に渡り就業した移民者が多かったためだと推測される。

 佐渡鉱山を始めとする戦時期に朝鮮人が行った事業場で、朝鮮人が日本人に比べ死亡者や重傷者が多いのは特別な民族差別があったためではなく、事業場の労働需要と労働供給が一致した結果に過ぎない。つまり、健康な青壮年日本人は軍隊に徴集され、(海外の日本軍は1937年95万、43年358万、44年540万、45年734万人であった。戦時末期には20~40歳男性の60.9%が軍に属し、200万人が死亡した)、朝鮮人が青年として健康だったため坑内労働に配置された結果である。

 佐渡鉱山の場合、他の事業所に比べ争議が遥かに少なかった。1940年の動員開始以後、朝鮮人集団行動は計三件であったが、その原因は寮で支給される食事量の不足、作業用品の貸与費用、賭博で警察に申告された同僚を「救出」するための事件であった。

 

4,逃亡は強制労働の証拠にならない

 佐渡鉱山の朝鮮人である逃亡者の割合は、他の事業場に比べ遥かに低い。戦時労務動員された労働者の多数が逃亡するのは、朝鮮内でも同様であった。又、朝鮮人に比べ遥かに低い割合であったが、日本人もかなりの規模に達する。

 逃亡を「朝鮮人の抵抗」と見ることは出来ない。彼らは朝鮮人の約60%が動員された炭鉱や佐渡鉱山等の他の鉱山で地下労働をするのを忌避しただけである。事業場で働く最中に逃走する者は勿論、旅行費用をかけず安全に日本に渡航する方法として労務動員を利用した者、つまり福岡等日本に到着するとすぐ逃げたり、大阪や京都、東京等中間に寄着した大都市で予め連絡しておいた朝鮮人ブローカーの助けを借り逃走したり、契約期間終了後帰還費用を会社から受け取った後逃亡したり、家族は帰還させ自分だけ逃走したり等、これら全てが朝鮮に帰還せず、日本で報酬や勤労環境がより良い場所で就業した。これら逃亡者を探し出すための日本政府の特別な政策や手段は発動されたことがなく、摘発されたとしても月給の20~40%に相当する罰金に処され、最も大きな処罰は朝鮮への送還だった。又、軍需工場や戦争施設を建設する現場においてもこの逃亡者らを快く高賃金で雇用したが、これら事業所は現金が非常に豊かであったが労働力が極めて不足していたためである。

 佐渡鉱山でも1945年8月15日、終戦後に他の事業場に就業していた逃亡者中、その多くが本来の事業場に歸社し、他の事業場同様に佐渡鉱山側から逃亡者にも朝鮮への帰還費用を支給したためである。

 

5,歴史的事実を明らかにせよ

 朝鮮人動員は「強制連行」であったのか? 募集と官斡旋は、時には面事務所や駐在所の行政的支援があったが、朝鮮人と日本企業との関係は基本的に契約であった。契約は、朝鮮や日本事業場到着後に締結された。朝鮮で総督府官憲が威圧を行使し日本行きを強要した事例が官斡旋でしばしば発見されるが、それを正面から拒否したり、或いは朝鮮内から逃亡したりする等、朝鮮人が日本行きを受け入れない際、日本企業や総督府がそれを法的に強制する方法は無かったためである。それとは異なり徴用は法的制裁を伴い、その概念自体が文字通り強制的な動員である。即ち、徴用の場合「強制動員」と言うのは同語反復であることは明らかであるが、募集と官斡旋の場合は威圧が「強制動員」と規定することは出来ない。

 朝鮮人動員を「強制労働」と言えるのか? 韓国と日本の左翼勢力は、ILOが1932年に公布し日本も同年批准した「強制労働に関する条約(Forced Labor Convention)」に依拠する際、朝鮮人戦時動員は強制労働であり日本はこの条約に違反したと主張する。しかし、戦時労働は共同体と国家の存続に関わるものであり、強制労働に該当しないという解釈も強力に台頭しているだけでなく、韓国がこの条約を批准したのも2021年2月のことであり、それだけに各国の事情に従いその解釈と適用が変わるという現実を認めなければならない。

 「強制労働に関する条約」に関して、より重要な問題としたいことは、法律や条約で規定した概念と歴史的事実との関係に関する問題である。これらの概念がどの様なものであれ、それが歴史という客観的現実を変えることは出来ない。にもかかわらず、左派勢力が上記条約の「強制労働」概念に囚われ、韓国と日本国民をその概念で拘束しようとする。その理由は、客観的な歴史的事実ではなく「強制労働」という概念が既に形成した歴史に対する主観的、集団的、イデオロギー的な「イメージ」、即ち支配的な既存の歴史像を自由な市民に強要するためである。従って、戦時労務動員が「強制労働」なのかそうでないのかという問題についてはやはり歴史的事実を明らかにし、既存の歪曲された虚構と闘うことが最も基本的な課題となる。

 朝鮮人戦時労働者の労働を「強制労働」とは言えない。まず、募集と官斡旋はその性格が契約関係であり、従って契約期間が明記された。佐渡鉱山で1940年に朝鮮人を募集する際、契約期間は三年だったが殆どの事業場では二年契約であった。日本企業は労働力不足により契約期間が終了した朝鮮人が契約を更新し期間を延長するよう故郷訪問、奨励金支給、賃金引き上げ、家族招待等各種インセンティブを提供した。一部で契約延長を強要したと主張するが、それも法的強制手段を備えておらず、契約期間という面においてその約束を頻繁に違反したのは朝鮮人側であった。企業にいかなる償いもしないまま、任意に事業場を離れる逃亡が実に40%に達したためである。契約期間終了後、帰還や再契約を決定する権限と自由は朝鮮人にあり、交渉力も朝鮮人がより大きかった。

 日本企業において勤労に対し怠慢のみならず、「集団行動」に集中した朝鮮人を「不良」だとして朝鮮に強制送還したり、家庭の事情があったり契約期間を延長したりした労働者が「一時帰郷」するよう許可したが、多くの者は帰社しなかったという点も「強制労働」という主張と両立不可能である。当時、工場労働者や事務職労働者よりも高い賃金を支給し、疾病等による欠勤許容等労働の自由が保障され、佐渡鉱山の朝鮮人を含み酒色雜技が問題となる程に日常生活は自由であった。日本政府と企業は朝鮮人の労働生産性を最優先としたため、少なくとも規則・制度という水準では労働、勤労環境、衣食住において日本人と朝鮮人を差別することはなかった。勤労時間終了後や月3~4回の休日外出も自由であった。「鉄条網を張った壁」や「望楼」、朝鮮人の労働や脱走を監視する「銃を持った軍警」があった事例は一つもない。朝鮮人「強制労働」は神話である。

 

6,自分の意志で日本へ渡った朝鮮人

 朝鮮人戦時労務動員が行われた1939~45年に日本に渡航した朝鮮人は約240万人である。しかし、日本企業と政府が戦時動員として連行したのは約72万人に過ぎない。約168万人が戦時動員開始と共に大きく開かれた渡航の扉を開け日本に移住し、その大部分は金稼ぎのための数年の短期労働移民であった。日本行きに対する規制が顕著に弱まり、日本国内の労働力が極端に不足していたため統計に載らない多数の密航者も存在したが、その数は不明である。当時、日本ではこの様に戦時動員と無関係に、金稼ぎのために日本に来た労働移民者を「自由労働者」とした。

 同期間、戦時動員で日本に来た72万人中約25%が募集、40%が官斡旋、35%が徴用方式を経た。募集は基本的に自由意思によるものであり、官斡旋と徴用でも約四割が逃走し自由労働者となったので、戦時労働者中55%(25%+75%*0.6)が自由意思を貫徹したのである。官斡旋や徴用で日本に来たが、戦時動員を高所得の職場として積極的に受け入れた者(契約を延長した者や契約期間終了後、他の事業場に就職した者等)も少なくなかった筈であるが、その数は未だ分からない。結局、保守的に推論しても戦時労働者の45%、つまり32万人程が自らの意思とは無関係に日本へと移動したのだ。

 240万人中32万人で1939~45年の朝鮮人日本移住の性格を規定することは出来ず、208万人を中心に据えるより他ない。しかも、佐渡鉱山の例を見ても、1939年9月以前に既に日本に移住した朝鮮人労働者がいた。住友鴻之舞金山の例で分かる様に、彼らが戦時労働者を指揮・管理する上で重要な役割を果たし、佐渡鉱山含め他の事業場でも同様だったであろう。これら208万以上の自由労働者と32万の戦時労働者は、互いに無関係な存在ではなかった。両者は日本の労働市場で共存し、時には同じ事業場で勤務した。逃亡は戦時労働者が自由労働者となるルートであり、戦時労働者を雇う事業場は地上労働や相対的高賃金の如き、より有利な条件下にある自由労働者の存在を意識しなければならなかった。

 全体として、この期間は韓国史上初めて最短期間に自由労働移民が爆発的に展開された時期であり、その主体は広がった経済活動の領域を開拓した自由海外移民者と規定することが出来る。1870年代から第一次世界大戦に至る期間の、いわゆる「第一次世界化の波」の中で繰り広げられた国際移民と解放後に展開された韓国の国際移民がこの時期に始まったのだ。たとえ、その形態が植民地的・戦時的ではあったが、基本性格は海外移民であった。「植民地的」とは、この移民が支配国日本の規制下で行われ、移民者は「二等国民」の待遇を受けたという事実を指す。1937年以降、朝鮮人の日本渡航政策が急変し朝鮮人の移住はそれに規定された。「二等市民」は「二等」であることによる朝鮮人に対する民族差別の可能性を指すが、一方では朝鮮人が外国人や戦争捕虜が、日本「国民」として権利と義務を負ったことを意味する。朝鮮人は「徴用」の対象となり、「自由な逃亡」を選ぶことも出来たことがそれをよく表現している。

 戦時朝鮮人移民が「戦時的」であったのは、労働移民が戦争という特殊状況下で行われ就業の自由が制限される場合、即ち朝鮮人戦時労働者を相手にして炭鉱や鉱山の様に朝鮮人が忌避した職種が優遇・強制される状況も存在する様になったという事実を指す。同時に、戦争という状況は移民の可能性を大規模で短期間に急速に拡大する結果をもたらした。日本人男性の大規模徴集によってもたらされた労働力不足により、朝鮮人に対する処遇は市場均衡ではなく日本政府や企業の経済外的政策に決定され、これは逆説的に植民地被支配人民が彼らの人的資本水準を上回る厚遇を受けるという状況をもたらした。戦時移民はこの様に、一見して矛盾する複雑な様相で展開された。

 たとえ、その形態が植民地的∙戦時的ではあったが、基本的な性格は海外移民であった。1939~45年に行われた日本に向けた朝鮮人の移動を「海外移民の植民地的・戦時的形態」と捉え、戦時労務動員もその一環として理解することを提案する。佐渡鉱山世界遺産登録という問題も、韓日両国国民がその様な観点から共感して受け入れなければならない。

 

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