日本はファシズム国家に非ず、共産中国こそファシズム国家だ

【歴史通】2017年1月号
日本はファシズム国家に非ず、共産中国こそファシズム国家だ
島田洋一(福井県立大学教授)

ファシズムと中国の歴史戦
昭和戦前期、特に満州事変(1931年)以降の日本は「ファシズム国家」だったのか。この問いは、国際政治の中で、またその反映として、国内政治においても、近年新たな重要性を帯びるに至っている。その理由ないし発信源は、何より中国共産党政権であり、それが展開する「歴史戦」にある。
中国の公式見解によれば、第二次世界大戦は日独伊という「邪悪、闇、反動」を体現するファシズム勢力の侵略に、中ソ米英ら「正義、光、進歩」を体現する勢力が立ち向かった「世界反ファシズム戦争」ということになる。
 2015年9月3日、北京で、軍事パレードを伴って大々的に挙行された「反ファシスト戦争勝利70周年記念」式典における習近平中国国家主席の演説から主要箇所を引いておこう。同主席の傍らには、プーチン・ロシア大統領、朴槿恵韓国大統領、潘基文国連事務総長らが立っていた。
「中国人民の抗日戦争と世界の反ファシズム戦争は、正義と邪悪、光と闇、進歩と反動の大決戦だった。この惨烈な戦争中、中国人民の抗日戦争は最も早い時期に始まり、最も長く続いた。……この偉大な勝利は、日本の軍国主義の中国を植民地とし、奴隷のように酷使しようというたくらみを徹底的に粉砕し、近代以来、外からの侵略に対する戦いで連戦連敗だった民族の恥辱をすすいだ。……あの戦争中、中国人民は多大な民族の犠牲を以て、世界の反ファシズム戦争の東方の主戦場を支え、反ファシズム戦争勝利のために大きな貢献を果たした。……その中で、中国人の死傷者は3500万人を超えた。旧ソ連の死者は2700万人を超えた。……中華民族は一貫して平和を愛してきた。発展がどこまで至ろうとも、中国は永遠に覇権を唱えない。永遠に領土を拡張しようとはしない。永遠に自らがかつて経験した悲惨な境遇を他の民族に押しつけたりはしない」。
 読みながら、読者はいくつも疑問を覚え、幾度か失笑したはずだ。
まず二点、指摘しておきたい。第一に、20世紀の3大殺人者を、犠牲者数の多い順に挙げると、一位毛沢東、二位スターリン、三位ヒトラーとなる。前二者は外国人以上に自国民をより多く死に至らしめた点に大きな特徴がある。言い換えれば、スターリンと毛沢東は、その対内政策に関する限り、ヒトラーよりも非人道的だった。
ヒトラーは、最も「派手な」存在であるものの、権勢を振るった期間が短かった分(約12年間)、前二者より犠牲者数は少なくなっている。
第二に、第二次世界大戦は、通常、1939年9月1日のドイツ軍によるポーランド侵攻で始まったとされるが、9月17日のソ連軍によるポーランド侵攻をワンセットで捉えねばならない。独ソ不可侵条約(同年8月23日締結)の秘密議定書において、独ソによる東西からのポーランド分割が合意されていた。攻撃的な同盟を組んで大戦を仕掛けた勢力があったとすれば、それはドイツとソ連であった。
なお、この時期までのアメリカでは、ナチスを「ブラウン・ボルシェビズム」(褐色共産主義)、ソ連を「レッド・ファシズム」(赤色ファシズム)と呼ぶなど、ドイツとソ連を同一視する議論が盛んだった。それが一変したのが、ドイツの電撃戦成功(パリ陥落)を受けて3か月後、1940年9月27日に調印された日独伊三国同盟であった。以後、とりわけ日独を危険なファシズム勢力として一括する傾向が強まる。
米国における知日派の代表だったグルー駐日大使も、「ドイツの軍事マシーンとシステム、輝かしい成功が、強いワインのごとく日本の頭を参らせたようだ」と事態を嘆く電報を本国に送っている。
「現に欧州戦争または日支紛争に参入しおらざる一国」に攻撃された場合、三国はあらゆる方法で相互に援助する(第三条)としたこの同盟条約は、事実上米国を唯一の対象としており(ソ連は「欧州戦争」に参戦していた)、米国内でも正しくそう受け取られ、いたずらに反日感情を高めた。あくまで防御同盟であったにせよ、あの非人道的なナチスと組んだという事実は、今日に至るまで反日歴史戦のカードとして使われ続けている。日本外交史上、最大級の失敗だったと言わざるを得ない。
以上、まず二点を取り上げたが、中国が、「歴史を鑑とせよ」と日本に迫り、「歴史を改竄するいかなる企てにも断固として反対する」と声高に叫ぶ時、いかなる歴史認識を前提としているか、まず習近平演説で確認しておいた次第である。
付け加えれば、中国の歴史戦の狙いについても常に意識しておく必要がある。大きく三つに整理できるだろう。
 第一は、日本の精神的武装解除、すなわち中国がアジアに「覇権を唱え」、「領土を拡張」する上で障害となる地域大国日本の内部に贖罪史観、加害者意識を浸透させ、抵抗意思を萎えさせることである。第二は、「反省しない日本」への敵愾心を国内で掻き立て、共産党一党独裁体制の維持を正当化することである。第三は、自由、民主、法の支配、人権といった「現在」の問題に焦点が当たらぬよう、過去に注意を逸らすことである。
この点、先の習近平演説に、自由や民主といった言葉が一度も出てこないのは示唆的である。例えばアメリカの政治家が第二次大戦を振り返った演説を行うとすれば、「自由と民主主義が守られた」と、繰り返し強調するはずだ。中国の独裁者にはそれが出来ないのである。自らの現在に跳ね返るため、体制概念であるはずのファシズムを問題にしながら、体制の内容に触れられない。
それゆえ、中国が喧伝する「反ファシズム」は「反・日独伊三国同盟」とほぼ同義であり、敗北した日独伊=悪だから、それを打ち破った中ソ米英の側は、必然的に正義だと言っているに過ぎない。政治思想論としては何の中身もない、というより中身を意図的に空洞にした反日プロパガンダであり、それ以上でも以下でもない。
ところが日本においては、こうした相手の戦略的意図に気づかず、ないしは意識的に無視して、かつてファシズム国家であった日本が、今また安倍政権のもとでファシズムに回帰しようとしている、従って中国が懸念を覚えるのも当然といった議論が野党政治家や進歩派メディアからしばしば聞かれる。
以下では、こうした内外の「反知性的」な日本=ファシズム国家論に対し、若干の知的検討を加えていきたいと思う。

ファシズムと「開発独裁」の違い
よく指摘されるように、ファシズムという言葉は濫用され、単に政敵を「乱暴な悪人」と決めつける以上の意味をもたない場合が多い。しかし、歴史的経緯に即して次のように定義するなら、政治分析上有用な概念たり得ると思う。
ファシズムが用語として国際的市民権を得たのは、1920年代に、イタリアのムソリーニが、共産主義でも資本主義でもない「第三の道」として打ち出して以降である。「ファッショ」はイタリア語で束ないし結束を意味する。ムソリーニは自らの地位を「ドゥーチェ(統領)」と呼称した。
国家主義的な独裁を永遠の統治原理としつつ、資本主義のエネルギーを抑圧体制活性化のために用いるというのがその「第三」ないし折衷策たる所以である。ムソリーニは議会制民主主義をあからさまに侮蔑し敵視した。
ドイツのヒトラーも、国民全体の指導者「フューラー(総統)」を名乗り、統制の強化、批判勢力の弾圧を進める一方、経済については、主要産業のカルテル化を進めつつも一定の競争原理の維持を図った。「国民全体を国家主義化すれば経済の国有化は必要なくなる」という言葉をヒトラーは残している。
なお、ファシズムに異常な人種主義が加わったのがナチズム、ナチズムにさらに破滅的な対外拡張主義が加わったのがヒトラリズムと整理することができよう。
さて、「国家主義的な独裁を永遠の統治原理としつつ、資本主義のエネルギーを抑圧体制活性化のために用いる」をファシズムの定義とするなら、中国が掲げる一党独裁下の「社会主義市場経済」こそ、まさに現代におけるファシズムの典型と言える。中国は、「改革開放」を掲げた鄧小平時代に、毛沢東流の原始共産主義からファシズムに移行した。「反ファシズム」を言うなら、その対象は何よりも中国共産党政権でなければならない。
1949年の中華人民共和国設立以来、中国は、経済的混乱や絶対的貧困を乗り越えるための必要悪としてではなく、体制の基本的かつ永続的な原理として独裁を位置づけてきた。その点で、同じアジアのシンガポール、韓国、台湾などのいわゆる開発独裁とは質的に異なる。
この、独裁を統治の根本原理とするか、それともあくまで緊急避難措置と捉えるかが、ある体制がファシズムか否かを分ける重要ポイントと言えよう。

日本にホロコーストなし
比較ファシズム研究の権威スタンリー・ペイン米ウィスコンシン大名誉教授は、大著『ファシズムの歴史1914-1945』(1995年、未邦訳)で、昭和戦前期の日本について、「東条英機は決して軍事独裁者ではなかった。極右勢力はその内閣が弱体で統制を欠いていると批判していた。東条の個人的な権力はチャーチルやルーズベルト以下だったのではないか」と述べている。
また、「日本はドイツのような社会全般の過激化に陥ることはなく」、統制強化を唱える勢力が政府内外に存在したものの、「ドイツのシステムを単にコピーしようといった動きは決してなかった」と指摘している。そして、「日本には、全能の独裁者、ナチス的な党、SS(親衛隊。ユダヤ人大虐殺などに当たった。島田注)など存在しなかったし、反対派に対する強制収容所システムも一度も存在しなかった」点でドイツとは大きく異なるとしている。
同書はさらに、「軍事的には枢軸(独伊)側と結びついていたが、民主主義の側で戦ったとされるソ連や国民党中国より、日本社会の自由の度合いは高かった」というイスラエルのベン=アミー・シロニー・ヘブライ大学教授の言葉を引いて、賛意を表している。
著名な歴史家であるデヴィド・レイノルズ英ケンブリッジ大学教授も、『ミュンヘンからパール・ハーバーへ』(2001、未邦訳)の中で、「ファシズムという用語が日本に当てはまるかは、明らかに疑問である。唯一のカリスマ的な指導者というのは存在しなかったし、軍や官僚機構における従来のエリートが政治をコントロールしていた。多くの点で、第二次大戦中の日本は、『民主陣営』で戦ったソ連や国民党中国より統制の度合いが低かった」と述べている。
これら海外の優れた比較政治研究者や近現代史家の見解は、日本の史学界の主流より遙かに常識的と言えよう。
昭和戦前期の日本に関し、ヒトラーと同様、「これでもか、これでもかと侵略戦争をやった」(五百旗頭真・前防衛大学校長)といった単純な見方も、いまだに日本の学界有力者から示されている(潮匡人『司馬史観と太平洋戦争』PHP、2006年、p.135)。日本の軍事行動に、在中邦人の生命財産をテロから守る側面があったことなど、視野に入らないようだ。
北村稔、林思雲『日中戦争』(PHP、2008年)で、中国人学者(南京大学卒)の林氏が次のように述べている。
「……中国人から見ると、このように片方だけに戦争責任を求める論法には傲慢さが含まれている。すなわち、日本を日中戦争の主導者と見なし、日本が戦争を拡大しようと思えば拡大でき、拡大させまいと思えば拡大させぬことができたのであり、戦争の方向は日本の意思でコントロールできたというものであるが、自発的に戦おうとした中国人の意思が軽視されている」。
林氏は、「実際には当時の日本は、決して戦争の方向をコントロールしていなかった」とし、日中戦争の「本当の発端」は、「小さな軍事衝突」であった蘆溝橋事件(1937年7月7日)ではなく、「1937年の8月13日に発生した第二次上海事変である。そしてこの戦闘は、正しく中国側から仕掛けたのである(この日、蒋介石は上海に駐屯していた5000人あまりの日本海軍特別陸戦隊に対する総攻撃を命令した)。日中戦争が拡大した真の原因を言うとすれば、それは世論に煽動された双方の民衆の仇敵意識であると言わねばならない」と指摘している。
戦場がいずれの国にあったかではなく行為に即すなら、少なくとも、日中のうち日本のみをファシズム侵略国家と規定することはできないだろう。

イタリアとドイツの相違
日独伊をファシズム国家と一括りにする議論の不毛は、ドイツとイタリアの比較によっても浮き彫りになる。
ムソリーニ政権はユダヤ人も少なからず幹部に登用しており、ナチス的な異常な人種主義の要素はなかった。1932年に政治警察オブラ(OVRA)を新設して後も、拘留された政治犯の数は数百人規模で、ナチスや、いわんやソ連や共産党中国とは比較にならない。
また、1940年5月10日にドイツ軍がベルギー、オランダに侵攻、次いで20日にはフランスに侵攻して、西ヨーロッパを席巻する勢いとなったのを見て、6月10日、イタリアはドイツ側に立っての参戦を宣言したが、その軍事行動はイタリア系住民が多数居住する一部南欧地域の併合にとどまった。ナチスのような、軍事力による「生存圏」確保計画があったわけではなく(また能力もなかった)、時勢に便乗した権益確保以上の行為ではなかった。誤解を恐れずに言えば、イタリアと一括りにされても、日本としては大した実害はない。問題はナチスとの同一視であり、これには明確に反駁せねばならない。
ドイツの敗色が濃厚となる中、1944年5月5日、ナチス親衛隊長のハインリヒ・ヒムラーが行った内部訓話から一部を引いておこう。
「ユダヤ人問題は、われわれの血の存続が掛かった、生死を分ける戦いにふさわしい妥協なき形で解決されねばならない。服従の精神と絶対的確信に基づきつつ、この軍事命令の遂行が、私にとっていかに難しいものか諸君は理解できるだろう。『男に関しては分かるが、なぜ子どもたちまで殺すのか』と諸君は問うかも知れない。が、過去の戦争のルールは捨てねばならない。ドイツ人たるわれわれとしては、いかに心が重かろうと、憎悪と復讐心に満ちたユダヤ人世代を成長させるわけにはいかない。われわれの心の弱さと臆病のため、われわれの子や孫の世代に苦労の種を残すことを意味するからだ」。
これが、幼い子供を含め、ユダヤ人の絶滅(ホロコースト)に邁進した男の論理である。戦前期の日本のどの指導者の史料を当たっても、ヒムラーのような病的発言を見いだすことは出来ない。
日本軍の慰安婦制度をホロコーストに喩える人々が日本国内にもいるが、自国をどの地点まで貶めているか自省すべきだろう。

「天皇制ファシズム」の矛盾
先に引いたペイン教授の日独比較論中に、日本は「強制収容所システムを一度も持たなかった」との指摘があった。この点は、ナチス、ソ連、共産党中国などとの比較のみならず、戦時中のアメリカとの比較においても重要である。
よく知られる通り、アメリカでは第二次大戦中、主に西海岸に住む12万人の日系人が内陸部の収容所に強制移住させられた。正規の立法措置ではなく、ルーズベルト大統領の行政命令という形が取られ、62%は米国で生まれた2世、3世だった。
真珠湾のような日本軍による奇襲攻撃が米西海岸にもあり、日系人が協力者として破壊活動に走るのではという根拠のない噂に、軍人の一部が影響され、政治家が迎合してのことだった。当時のデウィット西部防衛司令官は、太平洋上の日本艦隊と西海岸の日系人の間に何らかの形で連絡があると信じていたという。強制移住に中心的役割を果たしたカリフォルニア州のウォレン司法長官(後に連邦最高裁長官)の言葉を引いておこう。
「遺憾なことに、多くの人々が、これまで破壊活動やスパイ活動がカリフォルニアで起こっていないから、何の計画もないと考えている。しかし、これこそ最も不吉なサインである。スパイは時を見計らっている。われわれは、誤った安全の感覚に誘い込まれている。私はそう信じている」
つまり、日系人による破壊活動の兆候がないことが、逆に怪しさの証明というわけである。牽強付会の極みという他ない。
ファシズムの具体的発現形態の一つが国内における強制収容所の存在だとすれば、その点、日本の方がアメリカよりファッショ度は小さかった。

日本史学界のファシズム論争
日本の近現代史学界においても、日本=ファシズム論は断続的に論争を呼んできた。中でも、伊藤隆東大教授の「昭和政治史研究の一視角」(1976年)、「『ファシズム論争』その後」(1988年)の2論文は、必読文献と言え、今日的意義を失っていない。前者は『昭和期の政治』、後者は『昭和期の政治[続]』(いずれも山川出版社)に収められている。
紙幅の関係で、ここでは箇条書き的にいくつかの論点を紹介するに留めたい。
伊藤氏は「天皇制ファシズム」という学界用語について次のように言う。「『ファシズム』がはなはだ曖昧な用語であるうえに、この『天皇制』なる用語もまたはなはだ曖昧な用語である。……この用語は日本近代の広い意味での政治支配体制全体を対象としているが故に、その政治的情動的な感触を除けば日本近代の政治支配体制という以上の意味をもたない。近来『古代天皇制』『近世天皇制』といった用い方をされるのだから、必ずしも近代に限定されるわけでもないらしい。とすると、戦前期に濫用された『国体』という用語との類似を感ぜざるを得ない。日本の広い意味の政治体制をプラスに評価する用語としての『国体』のちょうど裏側、つまりそれをマイナスと評価する用語として『天皇制』が存在するといってよいであろう」。
それゆえ、「天皇制ファシズム」は何を限定したことにもならず、分析の道具たり得ないというのが伊藤氏の指摘である。その通りだろう。
伊藤氏はまた、大恐慌に続く1930年代について、「いずれの国家もその現実的な形態は異なるとしても、最底辺に至るまでの国民のエネルギーを総動員し、それを背景に権力の集中を図っていたのであって、それは実に1930年代の一つの世界的に共通した傾向であった」と述べ、日本史研究者はもっと国際的な視野を持たねばならないと説く。これまた的確な指摘と言える。
満州事変以降の日本をファシズムという言葉でくくるのではなく、具体的に「軍部の台頭」「戦時体制」などと表現していく方が、実証的研究に資するというのが伊藤氏の主張である。
以上、「日本はファシズムだったか」という設問に対し、さまざまに批判的検討を加えてきた。今後も引き続き、議論を精緻化させていきたいと思っている。